イザークは朝からとびきり不機嫌だった。
あの夢のあとディアッカの歯軋りといびきによって安眠を妨害され、
やっと寝付いたばかりの時にディアッカに起こされたからだ。
「イザークちゃ〜ん、朝ですよ〜☆」
朝っぱらから能天気な声を聞かされてイザークは怒りで頭が沸騰しそうになった。
「飲むかい?夜明けのコーヒー」
「き〜さ〜ま〜!」
とりあえずディアッカを一発殴って床に沈めて支度をすることにした。
しかし支度をしているイザークの後ろでディアッカはむくりと起き上がり、こう言い放った。
「今日の任務でお前とシホちゃんはAブロックを偵察しろよ。」
「ディアッカ!だから昨日…!!」
「まあまあ、昨日シホちゃんに可哀想な事しちゃったんだから少しはサービス、サービス」
「ぐっ…」
「このままぎくしゃくすんの、嫌だろ?」
「ちっ、じゃあ、お前は一人でBブロックとCブロック回れよ!!」
「おいおい、そりゃ勘弁!!」
「お前が先に言ってきたんだろ?」
「イザーク勘弁してくれよ〜」
ぶーぶー言っているディアッカを部屋に残しイザークは向かいの部屋をノックした。
「ハーネンフース、用意はできたか?」
「はい。」
「じゃあ、行くぞ」
外に出て空を見上げると、空はどんよりとした湿気を含んだ雲に覆われていた。
「傘とってきますね。」
「ああ、頼む」
傘を持って戻ってきたシホと共にイザークは歩き出した。
「まずこの通りから行くか。」
スイスの街並みは美しかった。
人工的に整備された街並み。
でもその中に暖かみを感じることができるような街並み。
「綺麗だな。」
イザークは思わず呟いた。
隣でシホもこくこく頷いている。
あいつと来ることができたら良かったのにな…―
柄にもなく感傷的になっていると思う。
ディアッカの言葉が胸に響いてくる。
フレイが本当に望んでいたことは分かっている。
分かってる、分かってるのだ、頭では。
しかし、このまま変わっていくのが怖い。
フレイがいないというこの状況に何時しか慣れてしまうかもしれない自分が怖い。
あいつの声、あいつの顔、あいつの手、あいつの髪…
あいつの感触を日増しに忘れ去っていく自分にどうしようもなく腹が立つ。
次に起きた時にあいつの事を思い出せなくなったらと心配で夜もなかなか寝付けない。
忘れちゃ駄目だ、俺が忘れては駄目なのだ。
これは義務じゃない、自分の意志なのだ。
例えこの世界の全ての人があいつを忘れ去ってしまっても俺は決して忘れさせやしない。
そしておそらく自分はもう他の誰かは愛せない。
誰かをあいつの代わりとして見るのも嫌だし、
第一、誰もあいつの代わりになんてなれっこないのだ。
俺はあいつの幻影を追って生きていく。
誰がそれは間違っていると否定したとしても俺はそれを辞めるつもりはない。
それが唯一無二の親友だったとしても。
あいつのことを忘れ去った世界には幸せなどあるはずないのだから…
隣のイザークは何か考え事をしている。
シホがじっと見つめるのにさえ気づかない。
その瞳には哀しげな光を宿し、頬に睫毛の影を落としている。
しかしその瞳は強い光も宿していた。
決して意志を曲げないという強い光。
あの事故以来彼はとても儚げに見えたが、しかしその瞳には強い光があった。
まるで傷つき地面に臥した肉食獣が最期に放つ光のような強い光。
シホは改めて美しいと思った。
どうせ彼の心の大部分を占めているのは、かの少女だろうけれど隣に居るだけで幸せだった。
しかし今の、いやこれからもというべきか、シホには入り込めない部分があった。
彼は今、誰にも心を開けていない。
そう、あのエルスマンさんに対してさえも…
私に何ができるだろうか。
一体何が…?
しかし実際の所きっと何もできやしないのだ。
この手は決して届かない。
いくら手を伸ばしても空をつかむだけだ。
いつも私の想いは空回り。
想いだけ残して儚く散った少女が羨ましくもあり妬ましくもある。
ずるいわ、綺麗な思い出だけ残して逝ってしまうなんて…
私に勝ち目なんてあるわけないじゃない…
でも…いつか、私を、私だけを見つめてもらうようになるんだから、絶対。
シホはきっと前を向いた。
順調に偵察を終えて行き、街は家路を急ぐ人が多くなってきた。
空は相変わらず雲に覆われている。
「どの位終わったか?」
「あともう少しです。」
「そうか」
ほぼ一日中歩き回ったので流石にコーディネイターと言えども足が棒のようになっていた。
「流石に疲れたな。」
「そうですね。」
「雨も降りそうだし今日は早めに切り上げるか」
―どうしよう…―
シホは迷っていた。
イザークに駅の近くのカフェで休憩にお茶でもしようと言おうとしていたのだ。
―隊長、怒るかな…?―
横目でちらちらと横顔をみる。
―え〜い!言っちゃえ!!―
「たいちょ…」
「おい、道間違えてないか?」
「えっ!?」
「前の道、曲がらなきゃいけないんじゃなかったか?」
「あ、そうです!すいません!!」
そして、シホはため息をついた。
―いいチャンスだったのに…―
「どうした?具合でも悪いのか?」
「いえ!そんなことはありません!!」
イザークに顔を覗き込まれて顔が真っ赤になる。
くるりと後ろを向いて歩き出す。
少し歩いたのに後ろのイザークの靴音が聞こえてこないのを訝しんで後ろを振り向く。
イザークは懐かしい色を人混みの中に見つけた、、、気がした。
人ごみの中ちらりちらりと時々紅い髪が見える。
―そんなはずはない。そんな訳ない…あいつはもういないんだ。―
頭では分かっている。
それでも目を放すことはできなかった。
―あいつは、あいつはもう…―
フレイは友人を見つけることができずに焦っていた。
―どこ行ったのよ〜全然いないんだから…見つからなかったらどうしよう…―
心細さに負けないように唇を噛み締めながら人込みを掻き分けて前に進む。
―あ〜もう!私の馬鹿馬鹿馬鹿!!何で見失ったりするのよ…―
きょろきょろと周りを見回しながら進む。
前方に立ち止まっている人の足が見えた。
―こんな込んでるところで何突っ立ってんのよ!―
思わずいらっとしてついと顔を上げその顔を見る。
―嘘だ…そんな訳はない…―
イザークは目の前にいる少女の顔を凝視した。
―そんなはずは…!―
―何よ、この人。人の顔じろじろ見て…それにしてもこの瞳の色どこかで…―
「フレイ!」
イザークは思わず声を上げた。
「フレイだろ!?」
夢にまで見た愛しい人が目の前にいるという喜びでイザークの顔は紅潮した。
―どういうこと…フレイって子は死んだんじゃなかったの!?―
シホは目の前で起こっていることの訳が分からずにただただ見つめた。
―何でこの人私の名前知ってんのよ…―
フレイは怖くなって後ずさりした。
話したことも、見たことさえ記憶にない男が何故自分の名前を知っているのか?
「お前フレイじゃないのか?」
イザークは一歩前に出た。
間違いなら間違いでもいい。
ただ目の前にいる少女は記憶の中のフレイと全く同じだった。
「隊長?」
シホはイザークが何か勘違いしているのではないかと危ぶみ、声をかけた。
―何?この人たち…?隊長って…軍関係の人かしら?
でもそんな人が何で私の名前知ってんの?
何、この人たち…一体誰なのよ…―
フレイはいっそう怖くなってずるずると後ずさりをした。
イザークは目の前で恐怖に目を見開き後ずさりする少女を見つめた。
―何故だ?やはりこの女はフレイではないのか…?
いや、でも、フレイだ。フレイに間違いない。
この声、この髪、この歩き方、全てフレイと同じ…―
思わず後ずさりする少女の手を掴もうと手を伸ばす。
―怖い…!―
「嫌っ!!」
フレイは恐怖に突き動かされて思わず伸びてきた男の手を振り払った。
そして一目散にもと来た道を駆けだした。
「ちょっ、待てっ!!」
後ろで声があがるが怖くて振り向けない。
フレイはただ人込みを掻き分けひた走った。