「いってきまーす。」
フレイは木のドアを勢い良く開けた。
穏やかな春の日差しと、高原特有のさわやかな風がフレイを包み込む。
「気をつけて行ってくるのよ。」
玄関まで見送りに来てくれたおばあさんが手を振りながら優しく言う。
窓の側に座っているおじいさんも読んでいた新聞から顔を上げ、無言で、だがとても優しい眼差しで
フレイのことを見ていた。
フレイは振り向いて二人に手を振り家が見えなくなるまで何度も振り向きながら走った。
前の大戦から一年と少しの月日が流れ、人々の傷もだんだんと癒されていた。
ここはスイスのとある田舎町。
ほとんどの人が、酪農や牧畜、農業などで生計を立てている小さな町だ。
永世中立国として名高い国であり、ほとんどの人が先の戦争と関わらず、穏やかで平和な暮らしをしていて、
フレイが今暮らしてる家も牧羊をしている。
ハミルトン夫妻がフレイを引き取ったのはおよそ一年前のことだ。
シャトルの爆発に巻き込まれ、怪我をして、そのショックで記憶を失い、又、天涯孤独の身になっていたフレイを
彼女の父親に昔、世話になったことがあるという好で引き取ったのだ。
二人の献身的な介護と、その土地の豊かな自然のおかげで初めはショック状態で喋ることもできなかったフレイは
見る見るうちに回復し、今では走ることさえできるようになった。
地元の子供たちとも仲良くなり、今では今通っているカレッジのちょっとしたマドンナ的存在にさえなっている。
怪我はほとんどと言って良いほど回復したのだが、彼女の記憶が戻ることはなかった。
基本的なこと、例えばそれまでに習った計算等はできるし、きちんと字もかけるし、礼儀作法もきちんと覚えている。
要するに日常生活は普通に送れるのだ。
しかし肝心な、友人について、だの、今まで(戦時中)に経験したこと、遭った事、出会った人、
さらには自分の父親の記憶さえ欠落しているのだ。
時々ふっと何かが思い出せそうになるのだが、とたんに頭が痛くなり何も思い出せないのだと言う。
医師からは精神的なショックからの記憶喪失であり、安定してきたら徐々に思い出すので
無理に思い出そうとさせるのはいけない、温かく見守っていくようにと夫妻は説明を受けた。
フレイはそのことでよく落ち込んだり寂しくなったりするのだが、
彼らに心配をかけたくないと、勤めていつも明るく振舞っている。
しかし、傍から見れば隠そうとしていることはバレバレで、そのことが逆に夫妻の目には痛々しく映り、
彼らは毎日、大変心を痛めていた。
フレイが今通っているカレッジは山の中腹に建っている夫妻の家から歩いて30分程の所にある。
結構な距離なのだが、フレイはこの道が好きだ。
彼女が通る細い道は両脇を花畑や牧草に囲まれ、スイスの豊かな自然を存分に感じることができた。
ここを通ると何か懐かしいような、少し切ないような気がするのだ。
その気持ちが何だかフレイは思い出せない。
でも、とても心地よく、温かな気持ちだった。
そして今日もフレイはいつもの道を軽やかに駆けていった。